「もう道具に注意を払わなくてよくなった僕らは、道具の向こうに、たしかにあくまで道具を通して、昔ながらの自然をふたたび見出す。庭師の、船乗りの、詩人の自然を見出す。」
- サン=テグジュペリ『人間の大地』
はじめに
AIによって生産性が10倍になった、100倍になった、という話をよく聞く。
少なくともソフトウェア開発については、僕もそう感じる。以前なら数日かかっていた実装が数時間で終わったり、自分がよく知らない技術を使ったものでも、とりあえず動くところまで一気に作れたりする。ソフトウェアを作るコストはものすごい勢いで下がっている。
でも、ここで少し不思議なことがある。
僕たちが使っているソフトウェアは、10倍、100倍のスピードで便利になっているだろうか?
毎月のように生活を劇的に変える新しいアプリが登場しているだろうか?
あまりそういう感じは、しない。
もちろんAIそのものはめちゃくちゃ便利だし、AIを使った新しいサービスも次々と出てきている。しかし、ソフトウェアを作る生産性が文字通り10倍、100倍になったのだとすれば、その変化と比べて、僕たちの生活が便利になっていく速度はずいぶん遅いように思える。
なぜだろうか。
それは、ソフトウェアの限界は、ソフトウェアの側にではなく、世界の側にあるからではないか。
世界の側にある限界
技術は、それ単体では価値を持たない。技術が働きかける「世界」があって、そこで何かを可能にしたり、摩擦を取り除いたりすることで、はじめて価値を持つ。それは、技術の価値が、技術のみではなく、技術が働きかける世界の側に規定されることを意味する。
スマートフォンは、電球とは比べものにならないほど複雑な技術の塊だ。しかし、夜になれば人間の活動が大きく制約されていた世界に電球を持ち込むことは、すでにガラケーが普及していた世界にスマートフォンを持ち込むこと以上に、生活のあり方を根本から変えた。
それは、電球の方が高度な技術だったからではない。「夜が暗い」という巨大な制約が、世界の側にあったからだ。
ソフトウェアについても、同じことが言える。
ソフトウェアだけでもたらせる便利さについては、10年前ですでにかなりのところまで飽和していたのではないかと思うことがある。
Google Mapsで知らない土地でも目的地までたどり着け、LINEやメールで遠くにいる人とも瞬時にやりとりでき、Googleで世界中の情報を検索できた。Amazonでは家から出ずにほとんど何でも買えたし、YouTubeを開けば膨大な映像を見ることができた。
ソフトウェアがこうした大きな摩擦を次々と取り除いていくにつれて、ソフトウェア産業は、世界の問題を解決することよりも、そこからより多くの収益を取り出す方向へと向かっていった。アテンションを奪い合い、滞在時間を伸ばし、広告のクリック率を1%上げる。その1%には莫大な経済的価値があるから、そこに莫大な資本と優秀なエンジニアが投入された。
そう考えると、冒頭の問いにもある程度答えが出る。
ソフトウェアを作りさえすれば大きな価値が生まれるような問題は、以前ほど簡単には見つからなくなっている。つまり、ボトルネックは、ソフトウェアにではなく、ソフトウェアを求める世界の側に移っていたのだ。
まだ暗い場所を探す
AIを使っていると、ある種の全能感を感じることがある。僕たちは以前とは比べものにならないほど多くのものを、驚くほどのスピードで作れるようになった。
けれど、その全能感は、僕にとって少し奇妙なアイデンティティクライシスにもつながった。
AIに仕事を奪われるかもしれないという不安も、もちろんある。けれど、それだけではない。
これほど簡単にソフトウェアを作れるようになったのに、世界がそれほど急速に良くなるわけではない。そのことに気づいたとき、では自分がこれまで磨いてきた「ソフトウェアを作る能力」とはいったい何だったのだろうと考えるようになったのだ。
AIは生産性を上げる技術であり、だからこそ、「何が本当のボトルネックだったのか」を暴く技術でもある。
そして、何でも作れるからこそ、何を作るべきなのかを知らなければならない。
そのとき重要になるのは、どこにまだ大きな改善の余地が残っているかを見極めることだ。
すでに大量の資本と優秀なエンジニアが投入され、長い時間をかけて最適化されてきた領域よりも、まだ大きな摩擦が残り、ソフトウェアが十分に入り込んでいない領域の方が、大きな変化を生み出せる可能性がある。
ただし、ソフトウェア化が進んでいない領域には、進んでいない理由がある。制度や慣習、物理的な制約がある。外から見れば単純な非効率に見えるものにも、そこに至った理由がある。
既存の金融システムは分かりやすい例だ。送金や決済ひとつをとっても、外から見れば古く非効率に見える仕組みの背後には、信用リスクをどう負担するか、誰が責任を持つか、限られた資金をどう効率よく使うか、といった、ソフトウェアだけでは語れない事情がある。
そして、それを知るためには、僕たちはソフトウェアの外に出て、世界そのものを謙虚に学ばなければならない。
ソフトウェアが透明になっていくなかで、その向こうに見えてくる世界と向き合わなければならない。




